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桐生タイムスより

金と銀/その歴史

 金と銀とは代表的な貴金属だ。日本では昔から銀も金と同様に愛されてきた。京都の金閣寺と銀閣寺はともに室町時代に将軍により建立された。現代でも双生児の姉妹きんさん、ぎんさんは人気者だった。
 外国ではオリンピックの金メダル・銀メダルのように、銀も金と並んで尊重されることもあるが、日本ほどではない。
 言葉でも金運・金庫・金銭・金融・金利のように金が上につく二字熟語や黄金・換金・賞金・貯金・預金のように下につく熟語はたくさんあるが、金を銀に置き換えることはできない。
 賃金は誰でもチンギンと読む。常用漢字音訓表によると、金の音はキンとコン、訓はかねとかなだ。金をギンと読むのは賃金だけだ。なぜキンをギンと読むのだろう。
 賃金は昔、賃銀と表記された。戦後の法律労働基準法でも制定当時は賃銀だった。現在では賃金と記されているが、読み方は昔のままのチンギンが続いた。
 銀行と(信用)金庫とを考えてみよう。銀行は福沢諭吉がBankを銀行と訳したのに由来するらしい。その恩義に応えるためか、一万円の日本銀行券には福沢の象像が描かれている。
 銀行より後に設立された金融機関は、銀行を凌ぐつもりで金庫と名づけたのだろう。
 ではなぜ、Bankを銀行としたのだろう。江戸時代は金貨より銀貨が硬貨として多く流通していた。そのため労働の対価として支払う通貨を賃銀と表現し、戦後賃金と表記されるようになっても、チンギンの発音が残ったと想像される。
 さて、徳川の埋蔵金が赤城山麓に埋められていると信じて、掘り続けている人がいる。幕末、横浜に外国人が居留し始めた頃、日本国内での金と銀との交換比率は1対4くらいだった。しかし国際レートは1対12くらいだった。
 当時蒸気船で香港に往復するのは、すでに安全だった。日本で銀4貫で金1貫と交換し、香港で金に交換すると銀12貫になった。すなわち3倍になるのだ。麻薬の密輸入のように儲かった。しかも幕府公認だ。
 横浜在住の外国人はみなこの仕事に飛び付き、生糸の貿易より盛んになった。そのため生糸や絹織物を主産業とする桐生の機屋はずいぶん困ったとのことだ。
 幕府は金と銀との交換を制限したが、外国人は架空の名前を使って交換を要求し、不平等条約のため応ぜざるをえず、財政困難となった。
 明治維新になっても政府に金はなく、銀本位制となった。日清戦争に勝って清国から巨額の賠償金を取り、やっと金本位制となった。徳川の埋蔵金は存在しないと想像する。
(1930年生まれ。桐生市堤町二丁目)

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