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桐生タイムスより

井の中の蛙大海を知らず/本来の意味は

 ことわざや格言には意味不明のもの、互いに逆の意味に解されているもの、本来の意味と異なる意味に変化しつつあるものなどがある。
 犬棒かるたの最初の「犬も歩けば棒に当たる」は棒の解釈により、不運にも幸運にもなる。棒で打たれると解釈すると、やたらに出歩くな、余計なことはするなという教訓となるが、棒を道で拾った幸運と解釈すれば、積極的に行動せよという意味になる。両方の意味に使われているようだ。
 「情けは人の為ならず」は本来情けをかけることは回り回って自分のためになるという意味だが、現在では安易に情けをかけるのはその人のためにならないと解する人が多い。
 「棚から牡丹餅」は、棚からぼた餅が落ちてくる、すなわち労せずに幸運を得る、果報は寝て待ての意味だが、「落ちてこない」と解すると、努力せよとの意となる。
 「猫も杓子も」は誰もかれもの意味だが、語源には種々の説がある。女も子どももの意の「女子も弱子も」から転じたの説は落語「横丁の隠居」に由来するが、禰子(神主)も釈子(僧侶)もから転じたとする説もある。
 江戸時代は文字遊びが盛んだったから、ことわざや格言も対象になったのだろう。
 表題の「井の中の蛙大海をしらず」の井は井戸と解釈されている。しかし、井戸の中に蛙がいるだろうか? いるとしても暗くてみえないのでは? ふと疑問に思った。
 大昔、井戸を掘る技術がなかった頃でも、水は生活必需品だった。泉や川の水が利用された。水を汲みやすいように井型に組んだ水汲み場を作り、共同利用した。
 川辺の井には蛙が出たり入ったり泳いでいる。井の中の蛙とはそれを描写したのではなかろうか。
 物語風に記せば次のようになる。
 王侯の政治顧問の賢人は、読書に疲れ気晴らしに川辺を散歩した。そこへ女たちが数人やってきて井の周りで井戸端会議を始めた。
 川岸の藪に隠れて聞いていると、税金が高い、政治が悪いと批判ばかりだ。
 ふと川面に目を移すとカジカガエルが囲いから中流へ行ったり来たり泳いでいる。しかし遠くまでは泳いで行かない。あの蛙は広い海は知らないだろうと想像した。同様に、あの女たちは盛んに政治批判をするが、政治の難しさはしらないだろう(古代中国の話)以上のように、元の意味は眼前の風景を描写した素直な表現だ。
 それでは面白くないと感じた江戸の町民が、いろはかるたの絵札に井戸を描いたので井を井戸と解する人が全国に広まった。
 ことわざ大辞典に「井の内」と記されていたのがヒントで、井は井戸ではなく、川辺の水汲み場と想像した。
(1930年生まれ。桐生市堤町二丁目)

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