思うと考える/ニュアンスが異なる
言葉には同じ意味の同義語と反対の意味の反義語とがあるが、同じような意味だが少しニュアンス(語感)が異なる類似語もある。類似語は言葉を入れ替えても使用できることがあるが、違和感が生じたり、全く使えない場合もある。
代表的な例は思うと考えるだ。思うを考えると言い換えても、逆に考えるを思うと置き換えても違和感なく使えることが多いが、何となくすわりが悪いか、全く使えないこともある。
「あなたはどう思いますか」と尋ねられるのと「どう考えますか」と質問されるのとでは答えが違ってくるような気がする。思うと考えるの異同を言葉で説明するのはむずかしい。
心に思い、頭で考えるのではないだろうか。
思うは瞬間的に可能だが、考えるはある程度時間がかかる。試験で試されるのは知識や考える能力で、アンケート(質問調査)では思いを聞かれることが多い。
パスカルの「考える葦」やロダンの「考える人」は思うでは意味が通じない。
「自分のことばかり考えて、周りの迷惑など思ってもみない」は好例で、考えると思うを入れ替えても使えるような気もするが、いまひとつしっくりしない。
総理大臣は福祉や経済・外交などを考えて政策を立てるが、天皇は国民の幸福を思ったり願ったりする。天皇が政治を考えると憲法に抵触しかねない。戦前の教育勅語は「朕惟ふに」で始まるが「惟ふ」は思うより考えるに近い。
学校教育はほとんどが知識を授けたり思考力を高めたりで、考えるに力を入れているが、思う心を育てる情操教育も必要なのではなかろうか。
思うは心、考えるは頭でと異なる器官の作用だと述べたが、医学や心理学がない昔から二つの言葉はあった。現在の医学では心臓は循環器で、心に思うは文学的な表現にすぎないとされているが、日本人の多くは心情的に心は心臓にあると思っているだろう。
家族や恋人は頭で考えるより、心で思っていることが多く、恋という字も下に心がついている。感じの部首では「したごころ」という。
腕組みして考えるやねじり鉢巻きで考えるは理解できるが、胸に手を当てて考えるは戸惑ってしまう。
結婚相談所の広告に「結婚を真剣に考えている人」という言葉があったが、結婚を損得勘定でそろばんをはじくようでは、容易に結婚できない。考えるではなく望むとすべきだろう。少子化の原因はこんなところに潜んでいるのかと、ふと気付いた。
(1930年生まれ。桐生市堤町二丁目)