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桐生タイムスより

誕生日/祝わなかった

 「私は昨日84歳の誕生日を迎えた」という文を読んで、「アレ?」と違和感を抱く人は、日頃から注意深く文章を読んでいる人だ。普通は「昨日は私の誕生日で84歳になった」と記す。
 年齢は常識では誕生日に加齢するが、法律上は誕生日の前日に加齢するとされ、この解説は今までに何回も当欄で述べた。
 誕の原義は「おおげさなうそを言う。でたらめ」と偶然知り、驚いた。虚誕・荒誕・妄誕などの言葉が辞書にあるが、日常では誕生・生誕・降誕など「生まれる」の意味で使われるだけだ。常用漢字ではあるが音の「タン」だけで訓はない。文頭につける助詞で、「おおいに」と読むことがあるらしい。
 人の誕生とおおげさなうそを言うのと、どういう関係にあるのか調べたが、分からずじまいに終わった。人の出自に関する秘密は母親だけが知っていることで、父親にとっては最大の秘密かもしれない。そのために文学が生まれ、小説が書かれる。
 誕生日の随筆を書くために、自分がこどもの頃を思い出してみた。しかし、両親から誕生日を祝ってもらった記憶は全くない。
 私は昭和5(1930)年、神戸市の商家に生まれた。裕福ではなかったが極貧でもなく、ありふれた普通の商店の末っ子だ。
 私だけではなく、兄姉の誕生日も祝わなかった。けちな家風だったわけでもない。
 日本語大辞典の「誕生祝い」を読んで、合点がいった。
 誕生日の祝い。毎年、誕生日に贈り物やパーティーなどを行って祝う習慣。古くは正月ごとに年齢が増したので、誕生日の観念はなく、初誕生日だけを祝った。
 誕生祝いは地域や年代により格差があったと思われるが、桐生生まれの高齢者は誕生日を祝ってもらっただろうか。子や孫の誕生日を祝ったが、自分の誕生祝いの記憶はないのではなかろうか。
 誕生日はbirthdayの訳語かと思ったが、誕生寺があるので、古い言葉だと分かる。岡山県には法然の、千葉県には日蓮の誕生寺がある。
 誕生の語誌について、日本語大辞典に興味深い解説があるので、長いが引用する。
 誕生は、生まれる人物が高貴な者に限定されている。院政期頃になると、僧侶の伝記において僧侶が生まれる場合にも用いられるようになる。中世に入ると、院政期のような特別の表現を伴わない場合にも使用され、対象の階層が広がるが、まだ貴族・武士・僧侶に限定されており、一般庶民に対して用いられるのは近世に入ってからである。
 要するに、昔は高貴な人が生まれるのが誕生であり、庶民が生まれるのは誕生とはいわなかったようだ。
(1930年生まれ。桐生市堤町二丁目)
 

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