神と仏/異同を考える
神と仏の違いは誰でも知っているが、その異同を記せといわれると、戸惑ってしまう。
各人の宗教観・人生観により各人各様だろうが、私は次のように考えている。
日本列島には有史以前から、地震・台風・津波・火山の噴火などの自然災害があった。
人間が住むようになると、人はそれらの災害から逃れられず、自然に収まるのを待っていた。
災害は、目には見えないが正体不明の魔力を持つもの、サムシング・グレイトの怒りによると考え、怒りが収まるのをひたすら祈った。そのサムシング・グレイトを神と名付けた。
従って、神は動物だけではなく、海や山、すべてに宿り、八百万の神がみの信仰が生まれた。
初期の神は人を救済してくれるものではなく、怒らず暴れずを願い、触らぬ神に祟りなしを祈った。
一方、インドで生まれ、中国・朝鮮半島を経由して日本に渡来した仏教は、人を救う教えで、支配者である天皇が寺院を建立して奨励したので、人びとは信仰した。
仏像は人の姿をしているので親しみやすく修行すれば死後仏になれると信じ、鎌倉時代以降は葬儀と関連するようになった。
現在日本では、出生後の宮参りや七五三は氏神に参拝し、成人後の結婚式はキリスト教会で挙式し、死ねば葬儀を仏式で執行するのは普通のことで、一神教の信者には考えられぬ処世術だ。
ことわざには神と仏に関するものが多い。小学館のことわざ辞典には神が111、仏が122も立項されている。その中には知らないことわざも多い。
「出雲の神より恵比須の紙」は神より金が大切の意味だが、昔の紙幣には恵比須の絵があったらしいが、私は見たことがない。
「仏ほっとけ神構うな」は単なる語呂合わせだ。「神と仏は水波の隔て」は神と仏は本来同じもので、水と波との関係のように、形だけの違いとの意味である。
日本人の常識では、神と仏の顕著な相違は、人は死ねば仏になるが、神にはなれないことだろう。
神になる唯一の方法は、戦死して靖国神社に祭られることだ。神社は戊辰戦争以後の戦死者を祭っている。太平洋戦争の開戦責任者であるA級戦犯は戦死者ではないが祭られているのに、西南戦争で自刃した西郷隆盛は祭られていないらしい。その理由は、西郷は官軍と戦った賊軍の指揮官だからだ。まさに、勝てば官軍、負ければ賊軍だ。
総理大臣が靖国神社に参拝すると、中国や韓国から必ず厳しく批判され、外交に影響する。歴史観の違いによるのだろう。
(1930年生まれ。桐生市堤町二丁目)