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桐生タイムスより

要害山/自信がついた

私はこの随筆で記したようにがん患者で、一時は術後声が出ず筆談した。その後も体力がなく、ベッドから転落しても自分で起き上がる力もなく、このまま死ぬのかと思っていた。
 それが医師の見立てどおり、退院時には歩いて病院を出た。運動をすすめられていたが、体力のない老人が交通量の多い近所を散歩するとドライバーに迷惑がかかると思って、ほとんど外出せず、外出は郵便ポストに手紙を入れに行く程度で、家では足踏みや片足立ちで筋力をつけていた。器械を使わず数分程度で、運動といえるほどではない。
 ある日、術後半年間の検査でCTや血液検査を受けた。病院への往復は家族に車で送迎してもらっていた。
 桐生に50年余りも住んでいるのに、大間々高津戸の要害山には一度も登ったことがない。しかし里見兄弟の話は知っていた。平素は帰りも直接自宅へ帰っていたが、ふと要害山に登ってみようと思った。地名には縁起の悪いものは少なく、桐生の梅田は本来埋田だったとのことだ。要害山とは奇妙な地名だと思っていた。ふもとの駐車場に車を置き、案内板を全部読んで登ることにした。観光地や名所旧跡の案内板にはとかく誤りが多いのに、ここの案内板には珍しく誤りがないように見うけた。
 石段の坂道をゆっくり登り始めた。途中でリュックサックを背にした登山客が下りてきたのであいさつを交わした。足下に注意しながらゆっくり登ったが、なかなか頂上が見えない。初めからこんな坂道で遠いのを知っていたら登らなかったのにと思いながらも、せっかく来たのだからと思い直し、やっと頂上にたどり着いた。すばらしい景色に見とれた後下山した。急な石段を転ばぬよう注意を払って、無事に車の位置に戻った。
 登りの途中に少しは疲れたが、帰宅後には疲れはなかった。急な坂道の要害山に登れたので、すっかり自信がついた。あの山は要害山ではなく有益山だと思っている。
 次週、検査結果を聞きに受診する日は、家族が上京して足がなかった。登山で健康に自信がついたので、今度は上毛電鉄に乗ってみようと考えた。
 上電の丸山下停留所までは数百mだが、最後に乗ったのは50年も昔のことだ。停留所へ行く途中近所の知り合いから、どこへ行くのですかと声をかけられた。50年ぶりに上電に乗ろうと思って丸山下停留所まで行きますとあいさつした。
 赤城駅のすぐ近くだと思っていた病院までかなりの距離だったが、秋晴れのせいか、全く疲れなかった。
 検査の結果はすべて正常で異常所見は全くないと説明され、生活上の不便はないかと尋ねられた。がんの手術後の患者だとは思わないと返答したら、主治医は安心したような表情をした。
 (1930年生まれ。桐生市堤町二丁目)

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